建設業退職金共済、通称「建退共」は、建設現場で働く労働者のための最も重要な退職金制度として、長年にわたり業界の基盤を支えてきました。国が運営母体となっていることからその信頼性は極めて高く、建設業界においては事実上、最も一般的な退職金制度として広く浸透しています。
この制度の仕組みは、元請や事業主が労働者の就労日数に応じた掛金を納めることで、その積立金が労働者の将来の退職金原資となるというシンプルなものです。
建退共の最大の特徴は、掛金が「日額方式」を採用している点にあります。現在の掛金日額は320円であり、事業主はこの金額の掛金証紙(または電子申請による退職金ポイント)を、労働者が現場に入った日数分だけ積み立てます。
この仕組みは、天候や工事の進捗によって就労日が変動しやすい建設業界特有の働き方に合わせて設計されており、退職金が「勤続年数」ではなく「現場で働いた日数×掛金日額」によって形成されることを意味します。
この制度について、多くの経営者や職人の方々から最も多く寄せられる質問の一つが、「建退共に加入して10年働いた場合、退職金はいくらになるのか?」という具体的な金額についての問いです。
結論として、掛金日額320円で10年間(120ヶ月相当)にわたり、標準的な納付日数(概ね2,400日程度)で計算した場合の退職金目安は、約89万円〜90万円前後とされています。この数値は、国土交通省や建退共が公表する退職金早見表や試算表に基づいた参考額であり、標準的なケースにおける水準として理解しておくことが重要です。
退職金の実際の受取額は、労働者が現場で働いた実際の日数、掛金の未納月があったかどうか、あるいは途中で掛金日額が変更されたかなど、個々の詳細な納付状況によって変動することを忘れてはいけません。しかし、建退共は長期加入者に対する給付が手厚くなるように設計されており、退職金が勤続年数に比例して右肩上がりに増加していく点も特徴です。
例えば、20年間働いた場合の退職金目安は約220万円前後、さらに30年間で約400万円以上が目安となり、長く建設業界で働くほど、退職金が有利に積み上がる構造になっています。
このように安定性と信頼性を兼ね備えた建退共ですが、老後の生活資金という観点から見ると、いくつかの構造的な課題も指摘されています。まず、退職金額そのものが、他業種の退職金と比較して「物足りない」「老後資金としては十分ではない」と感じられるケースが多いことです。
これは、日額制という制度の性質上、天候や現場の状況に左右される建設業では積立額にばらつきが出やすく、結果として老後の生活基盤を築くには心許ない積立額に留まってしまうという構造的な問題に起因します。
より深刻な課題として、建退共が労働者専用の制度であるため、社長や役員といった経営層は加入できないという点があります。「現場で働く社員には退職金制度があるにもかかわらず、会社を牽引してきた経営者自身には老後資金が残らない」という、企業努力の成果が経営者自身に還元されないという不均衡な状況を生み出す要因となっています。
こうした建退共の構造的な弱点を補い、建設業に携わるすべての人々に盤石な老後の安心を提供する制度として、近年急速に注目を集めているのが企業型確定拠出年金(企業型DC)です。企業型DCは、建退共とは異なり社長や役員も加入対象とすることが可能であり、会社が拠出した掛金を従業員自身が運用することによって将来の給付額が決まる「確定拠出型」の年金制度です。
企業型DCは、その税制上の優遇措置が非常に強力です。会社が拠出する掛金は全額損金として計上できるため法人税の節税効果があり、さらに、運用によって得られた利益(運用益)は全額非課税で再投資されるため、複利効果を最大限に活かして効率的に資産を増やすことが可能です。
建退共が「最低限の退職金を守る、セーフティネットとしての役割」を担う制度だとすれば、企業型DCは「税制優遇を活用しながら退職金を積極的に育てる資産形成制度」としての役割を果たします。
これからの建設業が目指すべき理想的な退職金戦略は、いずれか一方に依存することではなく、両制度の強みを活かした「ハイブリッド型」の運用にあります。すなわち、「建退共によって現場で働く社員の安定したベースの退職金を確保し、その上で企業型DCを導入することで、社員と経営者双方の老後資金を上乗せし、効率的に育てる」という考え方です。
この二階建ての戦略こそが、企業のリスク管理と優秀な人材の定着、そして建設業で働くすべての人々の長期的な安心を実現するための、最も合理的かつ現代的なアプローチと言えるでしょう。